GoldfishFilm

|脚本|映画制作|配給|宣伝|&.|

難波 望 Nozomu Namba

脚本家、ライター、映像制作者。日本シナリオ作家協会会員。
岡山で生まれ、福岡、高知、兵庫、愛媛など、西日本各地で少年期を過ごす。

高校を卒業後、故今村昌平監督が設立した日本映画学校(現日本映画大学)に進み、脚本家の桂千穂氏、高山由紀子氏に師事して映画シナリオを学ぶ。

メーカー事務、介護職、映像制作会社勤務、リサーチャー、プロットライターなどを経てデビュー。[GoldfishFilm]を屋号に脚本執筆から映像制作、講師、ライター、脚本家マネジメント、映画宣伝配給など多岐にわたって活動する。

2015年全国劇場公開の脚本執筆作『かぐらめ(監督:奥秋泰男)』は、第39回モントリオール世界映画祭、第24回セントルイス国際映画祭などにノミネートされ、国内外の劇場で広く上映された。

2022年8月には、オムニバスの一編『21世紀のおじさん(監督:前田直樹)』で脚本を担当した『おっさんずぶるーす』が劇場公開。同年には10名の脚本家が参加するオムニバス映画『オトギネマ』を企画・プロデュース・監督を兼任し制作。国内外19の映画祭にて入賞・入選した。

2023年には脚本家によるオムニバス映画制作プロジェクト『Mothers マザーズ』を企画プロデュース。2024年春に完成させる。配給宣伝も兼任し、新宿K's cinemaを皮切りに全国10館での拡大上映を達成。

【主な作品】
『渚のチョコレッタ』2004年 脚本・監督・編集
『東京蒼景』2008年(監督:前田直樹) 脚本・プロデュース
 ・東京ネットムービーフェスティバル2008入選
『どん底スラッガー』2011年(監督:大野仁志) 脚本
『かぐらめ』2015年(監督:奥秋泰男) 脚本
 ・第39回モントリオール世界映画祭 入選
 ・第24回セントルイス国際映画祭 入選 他
『海辺の弔い』2017年(監督:BEBE) 脚本
『東京橙景』2021年(監督:前田直樹) 脚本
『おっさんずぶるーす/21世紀のおじさん』2022年(監督:前田直樹) 脚本
 ・第45回湯布院映画祭秋の陣 招待上映
 ・第13回福岡インディペンデント映画祭2021 招待上映
『オトギネマ』2022年 監督・共同脚本・プロデュース
 ・第14回 福岡インディペンデント映画祭 入選
 ・セルベスト国際映画祭2022 最優秀実験映画賞
『ルカノパンタシア』2024年 監督・脚本・プロデュース
 ・第3回 宮古島チャリティー国際映画祭 2024 短編ストーリー部門 入選
 ・第1回 北海道国際映画祭 2024 短編コンペティション部門 入選
 ・第34回 ゆうばり国際ファンタスティック映画祭 ゆうばりチョイス部門 入選
 ・第7回 いぶすき映画祭 銀のいぶすき賞(準グランプリ)
 ・にほん海シアター2024 短編映画祭 優秀作品賞
『Mothers マザーズ』2024年 総合プロデュース
 ・第13回茅ヶ崎映画祭 特別招待作品
 ・十三下町映画祭2024 特別賞

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My 10 favorite movies

他にも好きな映画はたくさんありますが……

# ライムライト(チャールズ・チャップリン)
# トキワ荘の青春(市川準)
# 恋々風塵(侯孝賢|ホウ・シャオシェン)
# ニュー・シネマ・パラダイス(ジョゼッペ・トルナトーレ)
# さらば、わが愛/覇王別姫(陳凱歌|チェン・カイコー)
# リフ・ラフ(ケン・ローチ)
# きっと、うまくいく(ラージクマール・ヒラニ)
# スタンド・バイ・ミー(ロブ・ライナー)
# オール・アバウト・マイ・マザー(ペドロ・アルモドバル)
# 金の鳥籠|La Jaula de Oro(ディエゴ・ケマダ=ディエス)

- 主なプロフィール掲載サイト

・日本シナリオ作家協会
・Wikipedia(ウィキペディア)

これまでの歩み

はじめに

ここでは、ぼくのこれまでの日々について綴ってみようと思います。
少し長い文章になると思いますが、もしご興味がありましたらお読みください。

最近は、インターネットを介してお仕事のご相談をいただくことが増えたました。
メールにSNS、それにオンライン会議。スピーディーにお仕事を進められるようになった反面、豊かな時間が減ってしまったように感じることも少なくありません。

ちょっと横道にそれて雑談をするうちに、新しい企画を思いついたり、何気ないやり取りが、未来への励みになったり。ぼくはそんな時間が大好きです。単にお仕事をする相手としてだけでなく、相手のことを知ることで、気力が湧いてくることもあります。

一般的にお渡しするプロフィールは、上記のようなものなります。でも特に目を引く経歴があるわけではありませんから、そこに興味を持ってくださる方は多くはないでしょう。

もし、これからご一緒にお仕事をする機会があれば(なくても)、お時間のある時に読んで貰えると嬉しいです。共通点を見つけたり、印象とまるで違う点をみつけてくださっても嬉しいです。
またお話のネタや、何よりも新たな企画が生まれるきっかけになれば嬉しく思います。

- 目次

1.生まれてから学生時代まで

さて、ぼくは岡山県岡山市に生まれました。
前年には、隣県広島をホームチームとする広島東洋カープが球団初のリーグ優勝を遂げて、赤ヘル旋風を巻き起こしていました。唯一の市民球団として歩んできた弱小チームの優勝は、当時たいへんな希望をもたらしたようです。

幼い頃からぼくは広島カープのキャップを被っていました。選手の名前も知らないころからそんなふうだったので気付い時にはカープのファンになっていました。

けれども岡山で暮らしていたのは僅かな期間です。その後は父の転勤のため、福岡県大牟田市、高知県高知市、兵庫県西宮市、愛媛県宇和町(現西予市)と点々と暮らしていました。

「いろんな街で暮らせてよかったでしょう」、と言われることもあるのですが、引っ越しを繰り返すことで想い出が曖昧になってしまったようにも思います。子どもなりに対応していくことで精一杯で、忘れてしまったことが人よりも多いように感じます。

父はもともとは銀行員でしたが、大手生命保険会社を経て、ぼくが小学校4年生のときに2度目の大学生になりました。大学の神学部に入り、牧師になることを決めたからです。

小学校を卒業するまで四年間、ぼくの父は大学生でした。我が家からはマイカーが消え、テレビが消え、"節約"という言葉が常に生活にありました。父が大学生になってよかったのは、学食で家族みんなでステーキを食べたことくらい。テレビが無いことで流行りの話にもついていけず、子どもの時はちょっとイヤだなと感じることもありました。

でも振り返ると、そんな生活のなかで図書館でたくさんの本を借りて読んだことが、物語への憧れにつながったのかもしれません。それに自分の信じる道をまっすぐに生きてきた父の人生は、今思うとやはり誇らしくも思うのです。

父が無事にプロテスタントの教会の牧師となり、最初の赴任したのが愛媛県の宇和町(現在の西予市)という町でした。教会は、宇和島藩へとつながる宿場町として栄えていた卯之町という古い街並みにありました。父が牧師、そして教会に付属する幼稚園の園長先生となり、もともと幼稚園の先生だった母は現場に復帰しました。ぼくは、愛媛で中学と高校の6年間を過ごしました。

勉強も運動も飛び抜けてできることはありませんでしたが、好きなことへの集中力は高かったように思います。マンガを描いて藤子不二雄さんにファンレターと一緒に送ったり、友人と一緒に映画創りを始めたのも高校の頃でした。

当時はまだ家庭用のビデオカメラがあまり普及していない時代。よくそんなことを始めたものです。
ふだんは引っ込み思案なのに、決めてしまうと大胆な行動をとることもありました。
友人とふたりで自転車で野宿をしながら四国内を旅したことも思い出として深く残っています。

高校の最終年のときには、早い段階で映画を学びたいという気持ちが固まっていました。映画作りに挫折してしまい、"映画創りをちゃんと学びたい"という想いが膨らんでいたのです。

この頃には家にテレビがあり、日本テレビ系列で放送されていた金曜ロードーショーという映画番組を観ていました。近所には映画館はありません。ぼくにとって映画は、テレビで放送されるハリウッドのきらびやかなものであり、子どもがヒーローに憧れるのと同じような感覚で、映画監督になりたいと思うようになりました。

映画を学べる学校は当時から大学、専門学校といくつも候補はありました。ぼくはあまり悩むことなく日本映画学校(現:日本映画大学)に進学することにしました。どうやら今村昌平というエラい監督が作った学校らしいぞ、それに日本映画学校なんて、いかにも日本を代表する学校みたいじゃないか。選んだ理由はその程度です。
その頃は、その選択によってどんな人生になるかなんて考えもしませんでした。

上京し、意気揚々と始まった学生生活ですが、かなり早い段階で落ちこぼれてしまいました。
憧れのヒーローを目指すような浮かれた気持ちでいたぼくとは違い、映画学校には映画マニアや本気で映画監督を目指すギラギラした人たちが多くいました。

タバコで煙る廊下で、黒澤だ、小津だ、溝口だと語る同級生たちの輪に入ることができず、ぼくは失敗したなぁ、と何度も思いました。でも自由で開放的な雰囲気はとても好きでした。

そんな落ちこぼれ状態が続き、次第に学校に通わない日が増えていきました。そんなある日、ふと映画の伝道師ともいわれる淀川長治さんの特別講義を受ける機会がありました。淀川さんの映画愛は、感動するほど熱気に満ちたものでした。『映画』とは、こんなにも人を惹き付けるものなのだ。と本気に興味を持つようになったぼくは、次第に同級生に負けないほど映画を観るようになっていきました。

ぼくが最終学年(3年生)に選択したのは脚本ゼミでした。脚本ならコミュニケーション能力の低いぼくでもやれるんじゃないか、という想いもありました。それにお話を創ることが、いちばんやりたいことだと感じるようになっていたからです。
そして、その年の脚本ゼミの講師が桂千穂さんだったことが最大の決め手となりました。桂さんといえば、大林宣彦監督の作品を多く手掛けられていた脚本家です。

桂さんは、熱心に手取り足取り教えるというスタイルではありませんでしたが、脚本を書きたいという人が前に進んでいけるようなアドバイスを、ポツリと授けてくれるような方でした。ぼくにはそれが心地よいものでした。映画や脚本に関しては、厳しい意見を仰っしゃられることの多い桂さんでしたが、学生の作品にはとても優しく接してくださっていました。

夏休みに長編映画脚本を送ったところ、丁寧に端的なアドバイスを手紙にしたためぼくの実家に送ってくださったことも心に残っています。

「お見逸れしました。あなたがこんなに書ける人だと思いませんでした」

桂さんから、そんな言葉をかけてもらったぼくは、馬鹿正直に鵜呑みにして大喜びしました。
また卒業前に「あなたは書き続けたらプロになれますよ」と言葉をくださって、いつかプロになる日を楽しみに生きていくことができるようになったのです。
その手紙は25年くらい経った今も大切に残しています。

2.ネパール放浪から正社員へ そして人生も放浪

いつかプロの脚本家になる。それまではすべて作家になるための経験だ! という都合のよい考えのもと、学校を卒業後に正社員で働くことは頭の片隅にもありませんでした。

映画を観て、時々脚本を書いて、バイトに行く、そんな気ままな生活が卒業してからも相変わらず続きました。まだまだ本当の意味で苦労した経験もありません。「時期がくれば自分はやれるんだ」という若さゆえの自信に溢れていました。「すべては創作のネタになる」という考えは、「芸の肥やし」と一緒でそれっぽい言い訳になりやすいものです。

23歳のときには、アルバイトで貯めたお金で約1ヶ月間ネパールを旅しました。映画だけでなく、見たことのない世界を自分の目で見てみたい。それが、ネパールを初めての海外旅行の行き先選んだ理由でした。

ネパールで過ごしたひと月は大切な宝物になりました。首都カトマンズの喧騒に戸惑い、パシュパティナートで灰になった遺体が流れていくさまを眺めたり、チトワン国立公園のジャングルで象に乗ったり、湖の街ポカラでヒマラヤを見上げたり。今も時どき、あの僅かな期間の強烈な記憶を思い巡らすことは少なくありません。

しかし、バイトを辞めてしまって旅に出ましたので、帰国してからが思案の為所でした。
さて、これから何をして生きていこうか。考えた末に、当時お年寄りを主人公にした作品を書いていたぼくは、ホームヘルパー講座に通って介護施設で働くことにしました。取材もできて、給料も貰えて、人の役に立つ、こんないい仕事はないぞ、という軽くてアツい想い。

勤めたのは、横浜のデイサービスの施設。
慣れない送迎車の運転には苦労しましたが、楽しい想い出だけが残っています。

結局ぼくは一年余りで退職してしまい、その後はより意識的にいろんなお仕事をしていきました。
ピザの配達、コールセンター、土地の権利者調査、ファーストフード店、カメラ販売、メーカー事務、チーズ工場、生花工場、それに映画会社の宣伝部など。

一方で桂さんの言葉を従順に信じ込み、脚本を書き続けたぼくは、少しずつプロットを書かせてもらうようになり、自主制作映画を創ったりもしました。ただ、いつになっても脚本家としてデビューすることはできません。30歳が目前になり、このままでは取り返しがつかくなるぞ、という焦りが次第に募るようになってきました。

ぼくは気ままな生活についに別れを告げ、正社員として働きながら、脚本家としてのチャンスを模索していくことに決めました。
29歳で初めての正社員。就職先は起業したばかりの映像制作会社。ぼくは若手社員の中心として撮影、編集、台本なども含め、営業提案書なども書き、終電間際までバリバリと働き始めました。ここで経験を積んで、必ず映画を創るのだ、というモチベーションが一気に高まりました。

しかし、あえなく一年足らずで会社は解散となり、ふたたび無職に。
気づくと30歳を過ぎていました。

3.映画脚本を書くまでの日々

ふたたび制作会社への就職を目指したのですが、スムーズに決まりません。気ままな脚本家志望者に戻っても心は落ち着きません。と、元上司から新たに制作会社を起業するので手伝ってくれ、という願ってもいないお誘いを受けました。

社会福祉系の映像ソフトの制作が主な仕事。それでも、制作の流れを学べばきっと今後の役に立つはずです。社内で「書く仕事」をほとんど任されていたので、コイツは少し使えるかもしれない、という期待をもってくださったようです。

しかし、一年ほどが経っても一向に法人は設立されません。結局、次のステップを考えなければならなくなりました。そんな時、別の上司の紹介で映画業界の大先輩を紹介していただけることになりました。

それが、映画編集をしていたフィルムクラフトの金子尚樹さんでした。ぼくは、アルバイトのかたわらでふたたび企画書を書いたり、自主制作映画創りを再開しました。
そんな日々のなか、ぼくは結婚しました。

そして生計を立てるために、ふたたび介護職に就きました。20代の頃、中途半端な気持ちで辞めてしまったことが心に引っ掛かっていました。本格的に脚本を書く生活から離れましたが、介護職のかたわらでコンスタントに企画書の依頼などは受けていました。"脚本家になるはず"の人生から逸れていきましたが、あまり未練を感じることなく淡々と生活していました。

初めて劇場映画の脚本依頼を受けたのはそんな時でした。
阪神淡路大震災から◯周年という、一億円以上の製作費をかけた映画。そして、大ベテラン俳優の主演も決まり、百戦錬磨のベテラン監督とも打ち合わせを重ねていきました。諦めかけていた時にかけてもらったオファーでしたので本当に嬉しかった記憶があります。

しかし、準備稿が刷り上がり、撮影予定のひと月ほど前になり突如ストップしました。結局、そのまま製作が再開することはありませんでした。

以後も様々なプロジェクトにお声をかけて頂いたものの、気付いたら立ち消えになってしまうものばかり。ぼくは脚本家事務所に所属して、環境を変えることしました。

脚本家事務所に入ることで、たくさんの先輩・後輩と出会うことができました。テレビドラマや映画のプロットライターとして、数多くの企画に携わらせていただいたり、テレビ局で企画をプレゼンする機会も得ました。

ぼくは、介護職を続けながらプロットを書き、またカルチャースクールで脚本教室を受け持つようになりました。それでもなかなか脚本家としてデビューすることはできません。

準備稿まで進んでも最後に企画が流れてしまうことが重なっていくばかり。ある日、ぼくの首は突然動かくなってしまいました。原因は疲労だったと思います。

こうなるとデスクに向かうこともできません。
整形外科をはじめ、さまざまな治療院にも行きましたが一年が過ぎてもぼくの首は元に戻りません。そして二年が過ぎてもまだ痛みが残っていました。もう無理だな、と感じながらも日々は過ぎていきました。ぼくは脚本を離れて、別の人生を歩むことを真剣に考え始めました。

そんな時、ふたたび劇場映画の脚本にお声を掛けていただきました。
最初にお声をかけてくださったのは、ここでも金子さんでした。
「俺は難波ちゃんのマネージャーだから」と生前、ぽつりとお話されたことを今でも鮮明に覚えています。

体調に不安がありましたが、これを逃せばもうチャンスはないと思いました。ぼくは久しぶりに脚本を書きました。脚本を書く喜びをこれほど感じたのは初めてでした。

そして、映画は完成して各地の劇場で公開されました。
それが山梨を舞台にした『かぐらめ』という奥秋泰男監督による作品です。ぼく自身は、必ずしもよいお仕事ができたとは言い切れません。

でも、この作品はぼくにとって宝物になりました。その想いは年々強くなっています。もし、この作品を書いていなければきっと、映画や脚本から離れてしまっていたように思います。

それから首の調子が少しずつ良くなり、お仕事の相談も次々といただけるようになりました。

4.脚本を書くこと、映画を創るということ

映画『かぐらめ』は、幸いなことに奥秋監督の故郷である山梨を発信地として、東京や横浜、そして大阪、名古屋、広島など、全国で上映して頂くことができました。

カナダのモントリオール世界映画祭をはじめ、アメリカの映画祭でも。脚本の打ち合わせをしている段階から監督とは、海外映画祭での上映についてお話をしていたので、海外での上映やそれのレビューは心躍るものがありました。ようやく脚本家としてのスタートラインに立てた気持ちになり、少し安堵したことも覚えています。

「流れに乗る」という言葉をよく耳にしますが、小さな流れがその頃あったのかもしれません。小さな企画から少し大きな企画まで、常にプロジェクトに携わっている状況がやってきました。
これまでもプロットライターとしてはたくさんの企画に携わっていましたが、以降は劇場公開を前提とした企画の脚本の相談が増えていきました。

とはいえ、実現しなければゼロ円ということも多いのが現実。企画書の段階で終了してしまうものもあれば、準備稿まで進んで企画倒れになることも。ですから、その後も生活スタイルは変わりません。平日の仕事で生活費を稼いで、平日夜と週末に打ち合わせに行ったり、お仕事をしたり。

本当は、企画書やプロットを書けば、少額でも必ずお支払い頂けるとよいのですが、お付き合いというのもありますので、難しいところもあるんですよね。

映画が実現するかどうかは、脚本家の技量とは直接的には関係ないことがほとんど。脚本が良かろうと悪かろうと、製作費などの問題から難航、延期、中止することも実に多いのです。多くの新人脚本家たちのデビュー後には、このような波と壁が何層も待ち構えています。

ぼくは脚本家としての波には乗りそこねました。
でもそんな日々でも、特に後悔することもなく、「続ける」ことが現在もできています。
それは、少し遠回りするなかで、やりたいことがはっきりしてきたからです。

マイペースな活動かもしれません。けれども、これからもたくさんの方々と出会いながら、映画を書いたり、創り続けていきます。現在は、介護の仕事から離れてライター業で生活をし、合間に脚本を書いたり、講師をしたり、映画を制作しています。

今こちらを読んでくださっている皆さんと、いつか映画を通じてめぐり会えることを願って。

2023.02.12

5.それから―― 近況

さて、前項を書いてから数年が経ちました。
さまざまな出会いや出来事によって、心境や活動の仕方も変化がありました。
そのことを最後に補足しておきましょう。

軸足を脚本に置きながらも、現在は以前よりも映画制作に注力するようになりました。
若手脚本家をマネジメントしたり、短編映画制作をしてきて、自分が心からやりたいことをどう実現するかをより深く、強く、考えるようになった結果です。

2023年の夏に脚本家によるオリジナル脚本を劇場公開するプロジェクト『Mothers マザーズ』を立ち上げ、私自身もその一編で脚本・監督を務めました。劇場で自分が監督した映画が上映されるなど、数年前までは考えられないことです。

でも、「やる!」と決めてしまえば、案外できてしまうものですね。
配給・宣伝も未経験でしたが、近年少しずつ勉強をしてきこともあって、何より周囲の方々がたいへん協力してくださったおかげで、完成した作品は何とか上映館を広げられています。

30代から40代にかけて、さまざまなプロジェクトに関わらせていただきましたが、これからは、心躍る仕事だけを丁寧に取り組んでゆく日々を過ごせたらと思っています。

売れたいとかヒットさせたいとか、そんな想いで原稿と向き合うことはこの先もありません。
私は引き続き頑固な脚本家として、出会うべくして出会った方々を心軽やかに創り続けます。

GoldfishFilm(ゴールドフィッシュフィルム)は、2006年より掲げている難波望の屋号です。

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